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어느 바텐더의 날들
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ヴェスパー [ 2007.03.19 ]
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梅の花も散り始めようかという季節、深夜近くになってその方はいらっしゃいました。
電車で帰られるお客様がほとんどいなくなり、店内は静けさを取り戻しつつある頃でした。カランと表戸が鳴って振り向くと、Aさんがゆっくりとした少し心許無いような足取りで入って来られました。僕はおやっと思い、ほんの少しだけれど妙な胸騒ぎを覚えました。
Aさんは古くからのご常連様で、早い時間帯に来られ、そして早い時間帯にお帰りになられる方。僕の記憶の中に深夜のAさんのイメージはありませんでした。
「いらっしゃいませ。このお時間に来られるのはお珍しいですね。お近くで飲んでいらっしゃったんですね。」
「うん、まぁね。たまには遅くに来たい日もあるよ。今夜は少々頂いて来たからね、締めの一杯をと思ってね。さて何にするかな・・・。」
柔かい口調とは裏腹に、Aさんの表情には少なからず寂しいかげりが射しているように見えました。そうして、しばらくの間、物思いにふけて黙り込んでしまわれました。
いつものAさんは明るく快活で、７０を少し越えたお歳にしては少々騒々しいくらいに元気な方。そんなAさんに黙り込まれてしまうと、僕も内心焦って心配になるのですが、かといって勝手に踏み込む訳にもいかず、仕方なく僕も黙って話し掛けずにいました。
一体、今夜のAさんはどうしてしまわれたのだろうか。
振り返ってみると僕がこの店に入店して間もない頃、初めてお会いしたその時からよく響く大きな声で、「なんだこの若造はっ、挨拶出来んのかっ、挨拶はっ。声が聞こえん、何っ？ハキハキ喋れんのかっ！」
「あっ初めまして、あのぅ・・・」
「背筋を伸ばせっ、顎を引けっ！ 君は世の中の動きは知っとるかっ、経済はっ、歴史は勉強したのかっ？ 酒のことなぞ聞いとらん、そんなもん君らは知ってて当たり前じゃろっ。」
「ああっ、いやっ、そのぅ、、」
「まともな話し方も出来んのか、敬語もなっとらんっ。 日本語から学びなおせっ！！！」
僕には返答する間を与えず、散々に言いたい放題の言われ放題。僕が「坊や」の間は本当に、、沢山の、、お小言を、頂きました。飴と鞭ならぬ、鞭また鞭また鞭という感じで。 最近は多少認めて下さるようになったのか、以前ほどお小言を頂かなくなりましたが、そのパワーが落ちてきたような節はどこにも見当たりませんでした。いつでも元気すぎるくらいのAさんなのですが。
暫しの沈黙の後、Aさんはようやく口を開かれました。
「カクテルを飲もうと思うんだが。君は[ヴェスパー]というカクテルを知ってるかな？」
「はい、確か小説[００７～カジノロワイヤル～]に出てくるカクテルですね、少々お時間を頂ければ調べてお作りすることが出来ます。」
「じゃぁ、お願いしようか、頼むよ。」
「かしこまりました。」
僕は何冊かのカクテルや映画・小説に関する本を調べて、お出ししました。
ゴードン・ドライジンを２、スミノフ・ウオッカを１、これにキナ・リレを１/２。とてもよくシェイクして、レモンピールの入ったカクテルグラスに注ぎます。現在キナ・リレは生産されていないお酒なので、同社の後継品のリレ・ブランを使用しました。
かなりハードなカクテルですが、薄い黄金色に、凛とした、惚れ惚れするほど綺麗な味のカクテルです。スタンダードにならなかったのが故なのか、不思議なくらいに。
Aさんは静かに目を瞑りゆっくりとグラスに口をつけ、またご自分の奥深くへと、すっと沈んでいかれました。
チェックを済ませ席をお立ちになられる際になって、一言ポツリと仰いました。
「ヴェスパーの意味を君は知っとるか？」
「いえ、００７に出てくるヒロインの名を取ったカクテルとしか・・・」
「ふむ。味は悪くなかったよ。ご馳走さま、おやすみ。」
Aさんをお見送りしながら、何かが僕の中に引っ掛りました。味には自信がある、間違いは無い。でも、今夜のAさんとのやりとりの中で、僕は何か見落としていないだろうか。
何故、こんなに漠然としたものが引っ掛るのだろう。
ヴェスパー：宵の明星、もしくはキリスト教にいう夕べの祈り。
暮れ始めのまだ陽の名残る空に静かに現れ、やがて来る夜との狭間のひと時にのみ輝き、他の星達を目覚めへと誘い、いずれその幾万の光の中に紛れて消えてしまう星。
後日、知ったことですが、Aさんは数年前に奥様とご長男を同時期に亡くされておられました。大変なご心痛だったことでしょう。が、周囲には一切お話しにならず、心中の苦痛を微塵も見せず、平静変わらず振舞っておいででした。苦しい顔も、悲しい声も、恨めしい素振りも、疲れた背中も一片も見せず、ただしっかりと胸の内にしまっておいででした。
そのご命日が丁度この頃、梅の花の散り始める季節、あの晩辺りだったのです。
今思えば、Aさんがカクテルを口にされたことは一度も無かった。
僕は、初めてあの晩見たはずなのに。
深夜に来られたことは無かったのに。
あんな表情を見せたことなぞ無かったのに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Aさんは毎週のように来店下さいます。早い、夜になるかならないかの時間帯に来られ、ハイボールを何杯か飲み、よくお話しになられ、そして明るく帰って行かれます。
悲しい目も、苦しい皺も、恨めしい口元も見せず、快活な顔色に敏捷な筋肉を乗せ、太陽のように話題を振りまいておられます。
僕は何も出来なかった。
それに気付くのがやっとだった。
Columnist, Hiroki Sakajiri
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